歩きお遍路、四国から恵み、健康、笑顔、おもいやり

高野山

高野山

高野山奥の院

 2008年4月16日~4月19日 4日間  信楽ヌ樹 シガラキタヌキ の貴重な体験記

4月16日

88番最後の札所大窪寺
88番最後の札所大窪寺

無事に88箇所を歩き終える、四国一周にこだわる歩きお遍路としては出発地点の1番霊山寺を目指して歩く 。

88番大窪寺から1番霊山寺に向かう道は二通りある。一つは県道2号を10番切幡寺に向かう、さらに切幡寺から1番霊山寺に進む。

二つ目は県道40号に沿って讃岐相生、大坂峠を越えて3番金泉寺さらに一番霊山寺に進む道とに分かれる。

讃岐相生周りは距離が長いので一気に進む場合には早朝から歩き始めて夕方に一番霊山寺着となる。距離の多さに相当の覚悟が必要、出来れば途中で一泊したいところだが宿が無い、それに昼飯場所も無い、このコースを歩いて分かったことだが 3番金泉寺あたりから暗くなり心細い思いをさせられた。
 
大坂峠の頂上で薄暗くなっていたが一番霊山寺近くの宿「旅館かどや椿荘」に電話を要れ今晩の宿を確保する。宿が確保できて精神的にも楽になり歩く力もわいてきたようだ。

歩きお遍路の多くは88番から1番へのもどり道をどのような行き方を選んでいるのか分からない、ただ道中まったくお遍路の姿を見ていない。

それに、道標も殆ど無いので地図を頼りの歩きとなる、時々会う人に道順を聞いたり、民家に立ち寄って進む道を聞いた。

この日88番大窪寺を出て小一時間ほど歩いたあたりから雨が降り始めすぐに民家の軒を借りて雨仕度を済ませる。後はひたすらぶらぶらとだらだらと先を目指した。

一番霊山寺に繋がるこの道は有り難さが少ない味気ない道のように感じた。昼食を摂りたいと思いながら歩くが見つからず食堂をあきらめて食品店に入りパンと缶ビールで昼飯を済ませた。食品店のおばさんが店内の椅子を勧めてくれたので店内で食べることとなる。

おばさんの身内の話を聞きながらしばしの休息をとれてほっとした。
讃岐相生駅は国道11号と並行して走っている この駅は目の前が瀬戸内海となっている、どうにか目標にしていた駅にたどり着き休息をとる。

ここから大坂峠越えをするがだらだら歩いているせいか雨もあって気持ちに気合が入らない。

この時点では宿も決まっていないので更に落ち着かない気持ちが体全体を覆う感じだ。
大坂峠は登り終わると又登り更に登って峠の標識を確認できた。

旅館かどや椿荘に電話をする。
現在地は大坂峠であることを申し出て何とか宿泊の了解を得られ少し体に力がわいてきた。
大坂峠標識
大坂峠を目指す標識にお遍路マークが張ってある、
こ のお遍路マークを見ることで気持ちをなごまさせてもらえる。

薄暗い中を黙々と前進、峠を越え民家が見えてきた。途中何回か歩いている道が正しいか聞いて確認をしながら進み、3番金泉寺の標札が見える位置までたどり着けた。

宿に電話をして場所の確認をすると同時に宿へは数キロまで近づいていることを知らせる。

真っ暗な中宿の看板を見つけ今日の疲れを癒すことが出来た。
まず風呂に入りたかったけれど宿の方を待たせてしまっているので食事を摂る。

この旅館かどや椿荘は数年前にリュニアールを済ませて とっても素敵な宿に改築されている。出された食事も工夫されていて美味しかった。宿のご主人と奥様有難うございました。

風呂に入り、自動洗濯機に濡れた衣服を入れて洗濯。もしかして洗濯も今回が最後かもしれない。
明日は、徳島からフェリーに乗って和歌山へ。

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4月17日

今日も雨、雨具を身に羽織り宿を出る、宿の奥さんが見送ってくれる。
昨日は1番霊山寺によれなかったので1番霊山寺に向かう。懐かしい2月29日に霊山寺で衣装を揃え出発した地に再び立ち寄ることができた。

無事に歩きとおせてよかった。
体重減で 履いているズボンもゆるくてバンドの穴も定位置では使えなくて穴を新たに開けたいくらいだ。

かどや椿荘の女将
かどや椿荘の奥様の見送りを受ける。
この宿のご夫婦は先代が業としていたお遍路宿を絶やさないために持っていた職を清算して宿作りに取り組んでおられる。ご夫婦の感性で素敵な宿に造り替え私達を迎えてくれている。

ひととき霊山寺で時間を潰して板野駅から徳島駅行きの車両に乗る。
女学生、OLが車両の中で化粧している、ア、現実に近づいている事を感じさせられる。

霊山寺にもどる 1番霊山寺では今日もお遍路の姿でにぎやいでいた。
霊山寺
徳島行きの列車 1番霊山寺に近い駅がJR高徳線板野駅。
この車両の中は化粧室のようだ。
高徳線板東駅 
化粧を公共の場で堂々としている光景は問題です、日本の本来の美しさは「恥じらい」ですよね。

そういう自分も人様をどうのこうの言えるほどの人物で無いから この件はだらしなく中途半端に終了。

だらしない私のような者が日本をだめにしているのでしょう、ため息が出る。

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コーヒー

徳島駅前タリーコーヒー
徳島駅前のコーヒーショップに入り今日一番のコーヒーを味合う。
モーニングコーヒー
フェリーで和歌山港へ渡り、南海和歌山港線に乗り換え和歌山市駅下車、駅の旅行代理店で和歌山市内のホテルを予約、明日の高野山行きの段取りを整える。

ホテルの所在地は市内でもちと怪しげな場所にある、内容は値段の割に良かった、その部屋に荷物を降ろし明日乗車する和歌山駅まで歩いて地どりを頭に入れる。

和歌山城

和歌山城
和歌山市駅から市の中央に歩いた位地に徳川御三家の一つ和歌山城がある、お遍路姿で立ち寄ると周りにいた観光客の目線を浴び写真を一緒にとってくれと言われる。

お遍路姿が珍しかったのだろう、四国で歩いていてこのようなことは無く自然と遍路姿が溶け込んでいた。四国だけに残る文化の重みをますます感じさせられた。

ホテルについてお遍路姿から普通の姿になり町に出る。

 

ホテルは和歌山市駅とJR和歌山駅の中間にある、高野山に行くためにはJR和歌山駅からが便利。明日の高野山に向かう列車の時刻も控え明日の高野山行きを楽しみにする。

駅近くのビルにある献血センターの呼びかけもあり 又88箇寺を無事に歩けた記念に献血をする。
ここで400cc分の体重減となる。出発時76kgの体重は確実に減っていることが分かっている、ズボンはゆるいしバンドの穴は適当でない。

ホテルに戻る途中蕎麦屋に入りカツ丼を食べる。何で今カツ丼なのか分からない、でもふらふらと店に入ってしまい、カツ丼を注文している。関東のカツ丼と違っていた、特に玉子のとき方が大きく違いややがっかり。 こくが無いというか、食べたかったカツ丼ではなかった。

今日の夕食はカツ丼で終わってしまった。明日の夕食は高野山宿坊での食事となる。何か一日一回しか摂れない夕飯を損した気分である、とぼとぼとホテルに戻る。ホテルの周りでその手の呼び込みにあう、「てめえら俺をなんと心得る88箇寺を廻ってきたもんだぞ、気楽に呼び込むな、こにゃろー」  心の中でぶつぶつとつぶやく。ますます現実の世界に戻ろうとしている事を認識させられる。

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4月18日

列車で高野山へ JR和歌山線橋本駅で南海電鉄に乗り換えて終点極楽寺行きを待つ。途中九度山駅で降りて最後の歩きとなる高野山奥の院を目指す。

JR和歌山線で橋本駅で乗り換え南海電鉄高野線で九度山駅で下車。同じ車両にお遍路さんが乗っていた。九度山駅から慈尊院を経由して町石道を登り高野山奥の院に向かう。
町石道
九度山駅から歩くこと20分ほどで慈尊院に着く、 慈尊院高野山を開いた空海の母親縁の寺。息子空海を慕って讃岐の善通寺町からはるばるやって来る、しかし女人禁制の高野山に入ることが出来ず麓の地に身を置く、後にその地が慈尊院となるのだが空海は高野山から町石道を通り母に度々会いに来ている。 度々を九度と言う表現から九度山と呼ばれる語源となっている。

町石道は高野山の表参道として開かれ、その距離は高野山山門まで約22kmその道程に1町間隔に(109m)町石(ちょういし)と呼ばれる高さ約3m強の五輪卒塔婆形の石柱が置かれている。

その数180町を登りきったところに高野山の金剛峯寺山門となっている。今ではこの町石道と呼ばれる参道を含めた高野山が世界遺産に登録されている。
この22km180町石を歩ききることで今回の四国お遍路の旅が終結となる。

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慈尊院

慈尊院
慈尊院山門、慈尊院から高野山への表参道となる町石道は世界遺産に登録されている。

町石道

町石道
町石道に立つ石柱は高野山山門まで1町ごと(109m)に180体が建てられてどこまで進んだかを知らせてくれる。

一体ごとに数字が刻まれている、数字を確認しながら歩くことも趣を感じられる。空海はこの道を通って母親が暮らす慈尊院へ月に何度と無く会いにいっている。

柿の畑

柿の畑
町石道を歩いていると何度か視界が開けて来る、ここは柿の畑が道に迫って植えられていた。

この一体は柿の産地となっていて又柿の葉を使った柿の葉寿司も作られている。

この日も一日雨に降られ町石道は一部が雨水の流れ道となり歩くのに苦労させられた。途中焼餅屋さんがあって温かい焼餅とお茶でいっぷく楽しめる。ここでの休息後は一気に高野山山門に至る。

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高野山山門

奥の院参道
高野山一体の堂宇を控えての山門は雨に霞んで佇んでいた。

慈尊院から歩くこと6時間でこの場に立つこととなる。標高1000mに高野山町と堂宇が集まっている。

空海が開いた高野山は密教の聖地として綿々として今に至る。

金剛峯寺を散策しながら今日の宿坊となる三宝院に入る。高野山には多くの寺が堂宇を成し其の内の53寺が宿坊を運営している。この旅の最後の宿泊場所として三宝院を選んだ、選んだわけは四国で出会った方の勧めがあったからだ。

宿泊代は11000円と高い、四国での宿坊は6000円以内が多く、11000円の価値に期待したが全てに失望させられてしまった。ここでも当たり外れが多いことを後で知った。泊り客は私を含め2人、翌朝の勤めもあり長々と説法を聞いた。

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4月19日

宿坊で清算をしてから、最後の納経をするために奥の院に向かう。高野山のすごさは歴史が至る所ににじんでいるところだと思う。多くの名だたる武将の墓が苔むしに覆われ杉の大木に光をさえぎられる、その姿を見るごとに余計それを感じる。

奥の院参道 

奥の院参道
戦国武将の墓は奥の院への道を進むと至る所に見られる。杉の大木は根を張り墓石を歴史と共に緩やかに動かしている、中には杉の根によって倒れ掛かる墓石もある。

納経所 

納経所
納経帳の1ページ目は最後まで白いままで残されている、ここ奥の院で記帳されることで全ページは毛筆とご朱印で埋まることとなる。納経帳にどれほどの価値を感ずるかはそれぞれの思いがある、私は大事に引き出しに入れて保存している。信仰の証としてではなく、四国一周を歩けた記念としてである。

納経帳に付いて、高野山奥の院のページは納経帳の1ページ目にある。その後のページから一番霊山寺、2番極楽寺と続く。最後まで空白だった1ページ目を記帳する。
納経帳の1ページ目に高野山奥の院記入場所になっているのは空海への信仰が高野山で生き続けているといわれる空海への、何なんだっけ、

そう、 四国の遍路道を開く大きな礎となったからであり、空海の足跡は四国から高野山へといざなう道なのだろう。ともかく無事に歩き続けられた、金剛杖と共に歩き、菅笠が雨や日差しから守ってくれて、白衣がそれらしく形作ってくれた、そんな にわかお遍路も無事に歩きとうせた。

良い悪いはともかくどのような形の歩きお遍路もそれなりにこだわりを持っている、そのこだわりに踏み込むことは出来ない。私のこだわりは寺と寺の 札所と札所の 霊場から霊場への道にこだわった、道を大切にいつくしみながら歩き通したつもりだ。

今何かに感謝している、何か、健康に感謝しているのかもしれない、計画から実行に移せた事に感謝してもいる。四国の有り難さに感謝も出来る。四国は宝である、宝であり続けてほしい。この感謝を多くの人に伝えたい。

もしよろしかったら四国へ行く機会を作ってみては如何か、四国は何かを与えてくれる。四国バンザーイ。

旅は高野山で終了した。女人堂から南海電鉄高野線の極楽橋駅まで歩く、高野線は大阪なんば駅に続く、難波駅から地下鉄御堂筋線に乗り換え新大阪駅へ。

新幹線に乗り東京へ、そして日常に戻り、日々を過ごす毎日が続く。頭なのかで一番霊山寺、二番極楽寺、三番金泉寺と思い出しながら今も四国を歩いている。

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女人堂

女人堂
旅の終わりは女人堂から南海電鉄極楽寺駅へ通ずる道である、色々な思いを胸に秘める空間を思う。

南海電鉄極楽寺駅

南海電鉄極楽寺駅
女人堂から歩いて40分ほど下ったところに南海電鉄極楽寺駅がある、ここから南海特急なんば行きに乗る。
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